恩田陸『Q&A』リアルタイム感想その3

恩田陸『Q&A』幻冬舎、2004

進度

麻生沙耶佳の章を読んだ。

麻生沙耶佳

小学六年生。当時五年生(ということは他の語り手たちの年齢も事件当時は一、二歳若いと見た方がいいのかな。なんとなく、事件は2002年2月11日という気がしてきた)。今時の、習い事に忙しい受験生。友達も大体そう。ちょっと歪だね、世相を反映してるってとこかな。ソフトボールのチームでお昼を食べて、迎えが来るまでの間Mの一階にいた。

内田修造の話にあった、人にぶつかってたソフトボールの子どもの一人で、倒れちゃった子がこの麻生沙耶佳だね。

一階の玄関から一階の奥の休憩所に行く途中で倒れた。整髪料?の匂いで気持ち悪くなった。不審者情報としては黒っぽい人が後ろのほうから走ってきた。匂いの元がこの黒っぽい人だとは言っていない。休憩所の奥の出口から出た。後ろに向かって走った人たちは、玄関から出ようとしたのか階段から降りてきたのかどういう人の流れだ?

そして今回も後半に伏線回収が。コーチはロリコンの変態、これさー写真も会社の広報誌のためじゃないんじゃないのきもきもきもきも。パパとコーチのせいで整髪料の匂いを嫌悪していて、同じ匂いがすると気持ち悪くなってしまうということなのかな。内田修造が死の臭いがわかるように麻生沙耶佳は性犯罪の匂いを感じ取れてしまう。二つ?歳下の美歌がコーチの毒牙にかかる予感に反応してしまったのだろう。Mの中や黒っぽい人が性犯罪属性だったのかもしれないけど、あの日の事件としては、麻生沙耶佳がMに行ったことで巻き込まれた事件としては、美歌ちゃんを守れずに失うことが該当するんだろう。パパ、コーチ、教頭のような男性が男性嫌いの生きづらい女性をつくる。

ママと南のママの対比も複雑な気持ちになる。南のママは、放任主義的で本人の積極性を重んじる。麻生沙耶佳(我ながら、毎回フルネームはもうやめればいいのに)のママは、自分を再生産しているんだよなあ。自分の好きな歌手から名前を取って、自分のやりたかったバレエをやらせて、パパの性犯罪から守らないことでコーチの性犯罪から友達を守れない女にした。でもこの教育ママを最悪とまでは言えないよね、麻生沙耶佳はママを捜すよね、世知辛いね。

教育分野、子どもへの性犯罪から社会問題を映し出していてキツい章だった。

黒っぽい人について、内田修造は液体を撒いた男の服装を白っぽい野球帽、黒っぽいセーターと表現した。同じ人物だと思う。この人物から整髪料の匂いがしたとすると、なんだか野球帽がコーチと繋がりそうな気がしてくるんだけど、コーチだったらソフトボールのチームメイトの誰かは気付くだろうからコーチとは別人なのだろう。麻生沙耶佳から見た事件の犯人は、誰に当たるのか。コーチというか悪しき男たち、かな。

質問者

麻生沙耶佳への質問者は「お姉さん」なので少なくとも現役世代の女性。いい人だよね、このやさしさがないと、ここまで話を引き出せなかったと思う。麻生沙耶佳が嫌がったという白っぽい背広を着て銀縁の眼鏡を掛けた(かなり派手な)若い男は誰の時の質問者なのだろう。書籍上で前にあった三章分(物語内の現実の時系列でもこの順番だったかはわからないよねってことを念頭に置いてしまう性分なのよ僕は)の質問者が全てこの人物なのかはわからないが、若い男だったとすると口調になんとなく納得がいく。

 

 

 

布施秀利『構図がわかれば絵画がわかる』リアルタイム感想その1

布施秀利『構図がわかれば絵画がわかる』光文社、2012

進度

p.31まで。8章あるうちの第1章の3分の2だけ読んだ。

点。人物をどこに配置するか

風景画のどこに人間を配置すればいいか。

そういうのが苦手!できない。画竜点睛を欠き系男子。写真の例の方がピンと来たかな、人間だからかしら僕らは人物が配置されていると、勝手に物語を見出す。その「物語」が作品の中から対比であったり動きであったり感情であったり……という「美しさ」を探すフックになる。よーな気がする。

ピントがぼけていても名画は美しいらしい。

構図とはシルエットでもあるということなのだろうか?僕は美しいという感覚がたぶん乏しいのでピンボケで写したダヴィンチの絵の美しさが正直なところまだわからないが、具象画を抽象画化しても美しい絵は間違いなく美しいのだろうということはわかる。うーんそれじゃあ、抽象画の方が具象画よりも構図が致命的なポイントになるってことなんだろうか。

垂直線。重力は世界の「しるし」

構図にとって重要なのは、画面の中の「バランス」だそうだ。

間違いない。偏っていると安定しない感じがある。

答案用紙のマスに書いてある字なんか、綺麗でも小さい字で細々っと寄せて書かれていたら気持ち悪く感じる。僕は絵のみならず字も下手なんだけど、何がダメって文字や線ごとの大きさや傾きがバラバラなんだよなあ。

バランスの基準を掴むために、垂直線を見つけて(描いて)、見えないが常に働く力「重力」を捉えよう。

物理学的でありつつそれこそが神秘でもあるような不思議な気持ちになるパワー。それが備わっているから名画は名画なのだと言われると、納得せざるをえない!

恩田陸『Q&A』リアルタイム感想その2

恩田陸Q&A幻冬舎2004

進度

今日(昨日)は内田修造の章だけ読んだ。

内田修

七十一歳。元精密機器メーカー技術者。老人っぽいのが、若い者には自分の感覚はわからないだろうと認識している点。というか人の認知自体を経験していない当事者には共感不可能なものと捉えていそう。理系やね?前半でそういう違和感を持ったら、ちゃんと後半で個人的な事情が明かされた。すごい。

経験のあるなしに関わるようでいて実際は内田に限定されそうな特殊能力として、死の臭いがわかる。男が一階で液体を撒く直前に死の臭いを当日現場で感じた。でも、内田は当時、決定的に敗北感や憎しみを抱えていて、逃げた時の感想もそれらに方向付けられている。心のコンディションが悪い。『藪の中』みたいなもんで、証言は証言者のキャラクターが反映されるので、惨さが強調されていると考えた方がいいよなあ。お菓子は結局他のところで買って近所の人に説明したのかな。忘れてたって、不思議なんだけど……全員が信頼できない語り手であることが前提の作品だけど、妻が記憶が飛ぶということにわざわざ言及されたからには、各証言は何かしら飛んでいて不思議でない。

事件についてへえと思ったのは、前章の淑子が非常ベルを聞いてエスカレーターで三階に降りて階段を降りた。三階の人も既に逃げ始めていた。それに対して、内田はベルへの言及はなく、1階の階段を登ったら上からも人が来て、流され流され二階の入口近くに来た。放送は聞こえなかった。やっぱり少なくとも三階でも何か人が逃げるような何かが起こっている。他の出来事も、決定的に凶行ではない恐慌なのだろう。駄洒落を強行。

世代間の憎悪という話が出てきた。人物が名前、年齢、職業でキャラクターを伝えてくる以上、重要な情報だ。階層ごとに異なるものが売っている商業施設にいた種々の人々。社会的な世相や感情が反映されてこの事件のようなカタストロフィになったということなんだろう。

質問者

「私たち」「我々」という主語を使っていることに初めて気付いた。念書のサインは大事だね。でも口外させたくないのに真相を調べているって奇妙。冬季オリンピックがあったなんて話をしているので、本文の問答は事件発生時点よりもかなり後で、同じ年ではなさそう。事件発生は2002年か1998年かな?

他の章と同じ人物かはわからないが、内田修造と話した者は高齢者ではない。警察ではなさそうだけど警察と消防の調査に詳しい。液体の情報を漏らしてくるところで一気に怪しくなった。人の口に戸口は立てられない。誘導尋問的な、情報を統制することで事件のあらましを形づくっていけそうな感じがした。

 

 

恩田陸『Q&A』リアルタイム感想その1

恩田陸『Q&A』幻冬舎、2004

選んだ理由

Q&Aというタイトルは知っていて惹かれた。よくある質問FAQについて最近考える機会があった。

進度

最初から、東都日報の記者の笠原久芳とその姉の外岡淑子の話だけ読んだ。

Q&A形式

「説明セリフというのはつまらないからやってはいけないのだ」と教えてもらったことがある。これは映画とかマンガとか映像的なメディアでの話だけど小説も読者の脳裏に映像が浮かぶように描くのがよいだろう。

で、このお話は、ある事件について、質問(インタビューか取材なのかな?)に対し各登場人物が、自分の見たこと、感じたこと、知っていることを答えるやり取りが書かれている。地の文は質問者のセリフなので会話劇みたいな形式。そのため、文量のほとんどが説明で占められている。

でもねーおもしろいわ!すごいですね。説明なんだけど語りになっていて、人物の当時の事情や話している瞬間の感情が描かれているからすごく自然に聴き入ることができる。ちゃんと映像でイメージできてまるで現実にこういう事件があって後からそれを調べているような気分になる。

笠原久芳

三十八歳。新聞記者だけあって、主観を示すにしても客観的にしようという配慮があるキャラクターになっている。質問の回答者としてはたぶん、良くも悪くも、という修飾が付く。記者としての本能と姉夫婦が巻き込まれたという個人的理由から、事件当日は好奇心をもって現場に急行した。当日以降もずっと取材をして記事を書いているらしいが読んだ部分では当日のことしか話さなかった。後のことはこれから別の人々によって明かされていくのだろうか?

外岡淑子

個人的にめっちゃおもしろかった。夢の話とかをアドリブで思い出してくれる、主観を赤裸々に話せる人という印象。キャラクターって大体男より女の方がおもしろい気がするわ。偏見。笠原より二歳年上の姉で発生当時は四階の婦人服売り場にいた。四階の人々が逃げる原因になった出来事は、奇妙な老夫婦がいたことらしい。老紳士の声は啓示、この老夫婦が犯人だとするなら逃げ出した私たちも犯人、など幻想的な可能性を冷静に明かせるのは結構人として強いなあと思った。この老夫婦の口は封じている辺りがニクいね、巧いね……。描写では、群衆心理と人混みでの圧死事故があって、ああこんな感じなんだろうな、こわいな、この人も自分もなんでなんとなく分かるんだろうなと思いながら読んでいた。

事件の真相、現時点の想像

あの日のMでは、複数のフロアいるいは全フロアで同時多発的に何か奇妙な出来事が起こっていて、それぞれの事件、引き起こした人物がなにかしらの繋がりを見せるのかな。うーん凡庸な発想。

テロっぽさはない。けど別の目的をもって、あるいは何の目的もなく発せられた何かしらの行為が、居合わせた者たちにパニックであったり欲動であったりを応えさせて、総体として見ると意味のまとまりを形づくるようなことはあると思う。質問は答えがあればこそ存在できるわけで、Qがアンサーを得るためのクエスチョンでもあり、アクションを得るためのキュー(CUEやないかい、Q入っとらんやないかい!)でもあるかもしれない、とタイトル考察を拵えておこう。

 

 

芥川龍之介『河童』リアルタイム感想

芥川龍之介『河童』

河童の国雑感

文明的だと感じる。文明が進みすぎるのは手放しで喜んでいていいものではない。

河童ではないから働かなくていい、もう親ではないから子のためにやった盗みは罪にならない、工場の職工は失業と同時に食肉になる、画や文芸は何を表しているかわかるから禁止にならないが音楽は風俗を壊乱する曲でも耳のない河童にはわからないから演奏禁止。

はっきりしすぎていて即物的な世界に感じる。嘘だとわかる嘘はついてもいい、自分の悪は自分から言ってしまえば悪は消滅する。心霊学協会もそういうことなんだろう。

「僕」はそもそも現実世界における異邦人?

「僕」(以下、僕と表記。僕の一人称も僕でややこしいので僕の考えを語る際は主語を用いません)は、河童たちとの交流の中で自分のことを社会主義者、物質主義者と名乗っている、精神病院の患者第二十三号。

河童の国に帰りたいと思うくらい社会に適応していない人物、裏を返せば人間の世界と異なっている河童の国に適合した人物。

すごく適応能力が高いよね異形の中でも変わり者たちとつるんで、好奇心を発揮している。すぐに河童の言葉を覚えている辺りに知能の高さが伺える。まあ河童の言葉は間投詞が多すぎて妄想っぽさが強いのだけど人間の世界に造詣が深い。早発性痴呆症というのは僕が「いつも彼以外のものを阿呆であると信じている」タイプの阿呆なのだろう。

河童の恋愛

色恋の話が多すぎるだろ。脳内メーカーどうなってんのよ。作者はきっと色ボケ野郎だな。

河童の国の恋愛観、人間(河童)観は、雌が雄の優位に立つ。おそらく当時の現実が雄偏重だったのだろう。といっても、僕が雌の河童からちゃんと聞いた話は登場しない。作中で語られる価値観は雄のみの視点であり、その構造自体が僕や現実の雄優位をどこか揶揄していそう。だけど、女を存在としてはあまり好きでもないので現実の恋愛や家庭も見方によっては河童の国みたいな感じじゃないかななんて思ったりもする。河童の価値観は人間と反対なようで通じているから複雑。よくできてる。

詩人のトックは善悪を絶した超人であろうとする(ということは善悪を意識しているんだろうな)。家族制度を否定する自由恋愛家だが家庭にうらやましさも感じる。

学生のラップは雌に抱きつかれたことで嘴が腐ってしまい、コンプレックスとして彼を苛む。なんなんだろう性病とか不能の比喩なのだろうか。

雌本位制の河童の国で哲学者のマッグは醜いために襲われずにすみ、客観的に僕と河童の恋愛について話したりできる。もちろん、雌に追いかけられたい気も起こるとこぼしている。「阿呆の言葉」を書いたのはマッグ。あれめちゃくちゃおもしろい。アイロニックで、河童(人間)のことを阿呆と言っているようでいて自分(書いたマッグ・芥川)のことを阿呆だと捉えていないと発生してこない格言たち。この言葉を読んで爪の痕を残すクラバックも自分の存在を阿呆と実感していそう。

物質世界において重要なのは精神

近代教・生活教は印象的。あの大寺院、人間に詳しすぎるでしょう。「食えよ、交合せよ、旺盛に生きよ」はなんというか俗物であれということなのかなと、たとえば社長のゲエルは生活教の信者じゃないかなと思っている。にしては聖徒の半身像が不真面目で堕落したとはとても言えない面々なので理解が難しい。河童創造は雌が先だけどその脳髄で雄を造った、アダムとイブも相当な女性蔑視だけどこれも同じくらいひどいね、比肩できる例としてこれを出せる発想力がすごい。河童の価値観や信仰は違う風で、やっぱり人間に近い、当時の現代社会のパロディだと思う。

河童の神経作用は人間のよりも微妙なので、罪を突き付けるだけでひとりでに死ぬ。なるほど人間より進化していると言わざるを得ない、個人的に一番人間より進んでいる点はここだと思う。河童たちは全体的に、病んでるよね。

詩人のトックは最後に会ったとき明らかに発狂していて、すごい詩人なのだろう最後の言葉はゲーテを引用する。トックの死の直前は河童の処刑方法、直後は河童の宗教生活教という構成から、トックの孤独は自身の罪を信じてしまったせいなのかな。逆に罪からも信仰からも自由だったせいかな。河童の国では信仰や社会理念と家庭(生殖、生活)が同一なので、超人の孤独さが察せられて後者?でも自分は無政府主義者ではないなんて言い含めてきたということは、トックの罪は無政府主義の疑いと取るのが妥当だろうか。どっちも一緒か?超人はつらいよ。

漁夫のバッグなんか実子に精神病が遺伝すると言われて生まれたくない主な理由に挙げられているし。バッグは特に河童の国に行くきっかけになった割には序盤までで出番がなくなる。妙だ。

僕の人生、精神性が、付き合う友人で表現されているのだろうか?

漁師町に生まれた青年が学生になり詩人、音楽家のような芸術と反体制的な熱狂を味わい資産家の富裕な味を知り。家に悩み評価に悩み、狂い、阿呆を自覚して罪を知って自殺して、宗教を信じ心霊になる、嘘になる。若返って蘇って現実に向き合ってみたら、やっぱりぜーんぶ嘘でした〜。おっと。適当こいてみたけど、結構マジに人生の縮図ね。

僕がおかしいので河童は全員病気がデフォルトなのかな。人間と異なるということはやはり人間の価値判断基準を意識しすぎていることの証左。真面目すぎる、信じすぎるせいで疑っているんだあ。無神論者や物質主義は無宗教ではなくてむしろ信心深い、みたいな。ラストのトックの詩が心に残る。神は死んだ。そういう幻想を見てる。代わりに河童を見つけるけど、嘘なんだってわかってる。

読んでなかった言い訳

一度読んだけど、途中で河童たちの名前が混同してきてキャラがわかんなくなっちゃった。ひょっとして、僕も誰かと誰かを取り違えたりしてないかなぁ。

リアルタイム感想銀河鉄道の夜

宮沢賢治銀河鉄道の夜

独特の語彙は自分がばかなのかと思ったら大体オリジナル

三角標というのがググってもよくわからないけどその地点に建ててあるしるしのような何かで、銀河鉄道の野原は宇宙の真空なんだろうからたぶん星のことなのだろうか。

ケンタウル祭もググった。ケンタウルスは射手座かなと思ったが宮沢賢治の造語らしい。

ジョバンニ

ジョバンニは「何かを言うことができない主人公」という感じがした。

先生にもいじめてくる同級生にも、鳥を捕る人にもかおる子という女の子にも、にも言葉が出なかったり声をかけられなかったりで気まずい描写があった。旅から帰還してカムパネルラのお父さんにもそうだし、カムパネルラにも想いは届かずに別離する。

ほんとうの幸はなんなのか、答えも出せず汽車に乗せられて景色を眺める。さびしい。

家庭環境も、父は捕まっていて母は病に臥していて。親友はいじめてくる相手を助けていなくなってしまったし、これからジョバンニは何ができるんだろうと辛くなる。ジョバンニが序盤に(駄洒落も慰めにならない)観測しているものたちが銀河鉄道の旅で登場しているのも、綺麗で見事な構成という前にやりきれなくなる。運命に囚われていて、ただの夢だったみたいじゃないか。

銀河鉄道の夜は夢か

夢だったみたいじゃないかと言っているのは、夢ではないような気もするからだ。草原で目が覚めれば旅は嘘のように消えてしまったような感じがするけれど、逆なんだよな。

銀河鉄道に乗らなければ、ジョバンニは草原で一人さびしくいるうちにカムパネルラをただ失う。二人の最後は、らっこの上着と馬鹿にされ言い返せずに去るジョバンニと守れずに心配して見るだけのカムパネルラ、というシーンだった。それは現実で変えられない運命なのだが、銀河鉄道に乗って、二人は美しいものを見て会話を交わした。

汽車の中でもジョバンニは不機嫌になってカムパネルラにぶっきらぼうな受け答えをしたりもするけれど、最終的に二人して喜んでいるし旅人との別れを悲しんでいる。ジョバンニの切符は「どこまででも行ける」。そういう捉え方を、できるなあ。

読んでいなかった言い訳

読んだけど、内容忘れちゃった。読み返したけど、途中で読むの忘れちゃった。僕にとっても夢のような小説なのでした。たぶん縁のない部類に入る作品だったので、このたび縁を引き寄せた。

『デジモンフロンティア』感想序論

デジモンフロンティア』観始めました

前回記事を読んでいただいてしまった方はご存知だと思われるが、現在苦しんでいる。僕が、というよりは、いち人間として苦しむべき時だから苦しめられてしまっている。逆境だ。
自分が揺らいで消えてしまいそうなとき、どうしたらいいんだろう。僕は、幼い頃に好きだったものと対話することで助けてもらってきた。
前回書いたかな、忘れたけど、和田光司が生きていたら何を言うかが怖い。逆に、いてくれたら、また平和の歌を歌ってくれたろうなあとも思ってしまう。しかし「泣いたって笑ったって変わらないことがある」「これから先に立ち向かう勇気はすでにもらったさ」「僕たちが新しい風を起こそう」。
ということで、大好きだった『デジモンフロンティア』をアマゾンプライムで観直しはじめた。感想をアウトプットして、立ち直りたい。
第1クールまで視聴したので今回はそこの感想を述べたかったのだが、作品自体について話したいことがたくさん出てきてしまったので、今回は序論とする。
以下、作品名、曲名は『』で表記する。作品名に関しては略称を用いるので頭にデジモンが付いていると思ってほしい。『テイマーズ』=『デジモンテイマーズ』など。
『フロンティア』1話https://www.youtube.com/watch?v=d4M9Jhcsz1s
誰に向けての内容なのかよくわからないので、時間がありデジモンに興味のある方以外で僕に興味のある方(奇特なひと……)は一気にP.S.まで飛んでいただいた方がよいと思う。でもデジモンミュージックについては書いていて特に楽しかったので読んでほしい。

未踏域を拓く『フロンティア』

デジモンには「世代」という進化段階が存在する。
基本的に、幼年期1、幼年期2、成長期、成熟期、完全体、究極体と進化していく。ポケモン(カードゲーム)にはベビィ、たね、1進化2、進化のような呼び方があるらしいが、デジモンの進化は段階数では表せないことがある。究極体から究極体に進化することや究極体と究極体がジョグレス進化(合体進化)して究極体になること、究極体から究極体にモードチェンジすることなどなどなどがあり、究極体に終極はないのかもしれない。例外がありふれるコンテンツ、それがデジモンだと言っていいのではないか。当然、進化するごとに強くなっていく(あくまで概説に留めたい。同一個体の成熟期の姿と完全体の姿では究極体の方が強いという意であり、成熟期では別のデジモンの完全体に勝てないかとか何体集まれば勝てるかとかは時と場合によりすぎる)。
しかし、「人間の主人公達がデジモンに進化する」『フロンティア』においては、ハイブリット体という世代の曖昧な形態が新登場し、主に活躍する。13話までで既に、複数の成長期、成熟期1体、究極体1体(に対してハイブリット体4体)と戦闘を行う。かなり世代の概念を超えた存在で、強さ議論的パワーバランスを混乱させる。4話にて成長期のマッシュモン3体が合体して成熟期のウッドモン1体になるなど、『フロンティア』は旧来の進化観を壊す作品にも見られたのかもしれない。

作品のつくりとしても、変身ヒーロー的な部分がある。前作『テイマーズ』は、他の個体を倒(殺)してロードする生命のルールを持つ異物=デジモンが現実世界に出現し、コンテンツとしてのデジモンを好んでいる子どもたちはパートナーとして関係を育んでいく。この血生臭い/血の通った両者の共生関係は、「デ・リーパー」という無機質でただ破壊的なデジモン・世界消去プログラムを打破する戦いへと集約していく(他力≧自力での自他救済)。『テイマーズ』のちょっとバイオレンスなナイーブさなど、個人的にはアニメ『デジモン』らしさここに極まれりと感じ入るが、『フロンティア』はもっとずっとわかりやすさを優先する。ゲームと称して集められた子どもたちが巨悪を倒すための旅の道中で悪を浄化する(自力での他者救済)という、勧善懲悪のお話だ。『テイマーズ』は現実世界、『フロンティア』はデジタルワールドを主な舞台にするので、対比で理解しやすいと感じる。人間の子どもたちが一時的にデジモンへと進化して戦うことは、デジモンの設定上の枠組みや世界観以上に、『デジモン』アニメの根幹に関わるのだ。現在放送中の『ゴーストゲーム』に至るまで、歴代の『デジモン』では主人公の子どもと魂の伴侶たるパートナーデジモンとのパートナーシップが非常に重視されているため、パートナーを持たない子どもたちの物語であるという点は他シリーズと比較する上で重大だ。
短く言えば、異色作なのだ。

家なき子の癒えとしての冒険譚

とはいえである。『フロンティア』は『デジモン』の正統だと僕は思う。
デジモン』に限らず、物語は「成長」「変化」が肝である。特に『デジモン』は、必ずと言っていいほど、主人公の誰か複数がコンプレックスを抱いていて、彼彼女なりの戦いを通して「進化」し克服する物語である。これこそが最重要の伝統だと感じるから、デジモンが登場し人物が成長すれば『フロンティア』も正しく『デジモン』だと言える。『デジモン』主人公たちのコンプレックスには家庭に関するものが多く、『フロンティア』も例に漏れない。

ちょっとだけにするから、主人公を見てみようね。
神原拓也。火の闘士アグニモン等に進化。小5。ゴマモン。1話は弟の誕生日。母親ははっきり言って弟の方に愛情を注いでおり、つまらない気持ちになったところで携帯電話にゲームの誘いが表示される。兄でありサッカーをやっているためかリーダーシップを取り仲間を助ける優秀さと率先して戦う勇敢さを発揮するが、サッカーでは個人プレーばっかりだったと自身の問題点をこぼす。キャップを逆さに被りゴーグルを着けるが、この要素は多くのデジモン主人公が持ち、4作連続。ついでに名前が「タ」から始まる主人公も多い。サッカー、兄、ゴーグルなど八神太一と共通項がある。
源輝二。光の闘士ヴォルフモン等に進化。小5。当初、他の4人とは別行動を取る。人間の状態でも棒術で幼年期2のデジモンに対抗できるなど高い身体能力を見せる。ぶっきらぼうで反感を買いやすい。意外といいやつという点が強調されている。単独行動時通りすがりに出会った拘束されているデジモンたち(デジタルワールドはケルビモンの影響で治安が悪い)を救出してやろうとして悪側の十闘士グロットモンに(人間のまま)接敵し、100mほど(人間のまま)落下する描写が象徴的。第1クール時点では明かされないが、現在の母は実父の再婚相手で、生き別れの双子の兄がいる。輝二という名前が示唆するように、兄は輝一。両親が離婚して兄弟が離ればなれ、クール担当など、石田ヤマトと共通項がある。
織本泉。風の闘士フェアリモンに進化。小5。現実世界では、帰国子女で自立しているせいで周囲に溶け込めない。と言っても子どもたちの中で協調性は高い方。紅一点であるためか若干お色気的場面があるが、男子陣にすけべ心があまりないので、泉が咄嗟に抱き着いて我に返ってから照れて殴るなど男子側の不幸ギャグとして描写される。そういう意味でも精神年齢が高めなのかもしれない。武之内空そっくりな優しい声質で、かと思えば井ノ上京のビンゴ! 的な独特の掛け声(イタリア語)とノリのよさを持っている。帰国子女という点は『02』での太刀川ミミと共通項がある。
柴山純平。雷の闘士ブリッツモンに進化。小6。純粋ゆえの対抗心や自分なりの解決法、都合の良さが見える。具体的には、異世界の住人であるデジモンに対して、チョコをあげるから道を教えてくれ、他のデジモンと仲良くしてやってくれ、等。根本的解決ではないので失敗してしまう。現実では性格に結びつかない要素ではあるが、一人っ子、少し肥満型という点は象徴的。5人の中で最後に初進化を果たし第1クール時点では他の仲間に付いていく展開が多かった。小5から呼び捨てにされるし、なんとなく責任感や頼りがいがなさそう。年上であるが初期は頼られない点は城戸丈と共通項。ただ性格的には反対に近い。
氷見友樹。氷の闘士チャックモンに進化。小3。いじめっ子によって無理矢理デジタルワールドへ向かう列車に乗せられたため、現実世界に帰りたい気持ちといじめっ子を許さない懲悪願望を持って旅をスタートする。第1クールでは母の姿が登場しちゃんと(?)愛されていると見られる。まだ明かされていないが歳の離れた兄がいる。ヒーロー願望や不安感、おもちゃで遊び始めるとなかなかやめられない点は幼さの描写でもあるが、小5×3、小6×1という高めの年齢と自立心で構成されるパーティでは「年少者にどう接するか」という重要な試金石になっている。弱点がわかりやすい分成長も表れやすく、暴走するヴリトラモン(拓也)に呼びかけて正気に戻した。成長泣き虫の最年少という点は高石タケルと共通。
特に好きなキャラを強いて挙げるなら、輝二、泉、純平。どうだ3人も挙げるなんて思わなかっただろ。属性が決まっていることもあってか、各人の問題点、目的は分かりやすく色分けされていて、どういった境遇の視聴者でもある程度共感できる主人公を見つけられるのが『デジモン』の素晴らしい点だと感じる。デジタルワールドはキミを待っている。

進化するのに使用する「デジヴァイス」は、所持していた携帯電話が変化したもの。ゲームの誘いも携帯電話に届いた。デバイス異世界との懸け橋となることには自分の身にも起こりそうな現実との近さを感じられ、ドキドキする。しかしここで既にかなりの歪さも示唆されていて、見事。拓也は(おそらく全員)、携帯に届いたメッセージにYESを押してゲームに参加する意志を示し、「自由が丘駅17:45発渋谷行きに乗って下さい」というイタズラなチェーンメールとしか思えない指示を受け取る。この電車に乗れた者がデジタルワールドへ送られた。放映当時の2002年が舞台だとすると、その時代に携帯電話を持っていて18時近くに自由が丘駅の地下鉄に乗れる小学生って……中高生になれば深夜にコンビニや新宿駅周辺の路上にいそうな、家に帰りたくないか帰れない子だと思う。
つまり、5人(6人)の主人公には、旅に出るに足る燻り・逆境・孤独があった。自立していて当然なのだ、これまでの主人公たちよりも孤独なのだから。これまでの3作と異なり、子どもたちの中に学校が同じ、名前だけでも知っている、のような縁故が一切ないことなど象徴的だ。ここまでくると、初の(唯一の)パートナーを持たない子どもたちという特徴にも、意義が見えてくる気がする。彼らは孤独だ。そのこと自体が問題で、そのこと自体が自分を世界を救う力を備えている主人公であることを示す。彼らは、YESをただ押しただけでありながらも、自分で戦って切り抜いて、出逢いとサヨナラを道標にゴミ箱を飛び越える。

法則なんて発明すりゃイイんだろ? ハイブリット体は美しい

『フロンティア』の異色さを説明するために既に触れた通り、デジモンの最重要要素に「進化」が挙げられる。
定義がさまざまだが概して、大概にせえよというくらい概して、人間の世界の概念をデジタルな世界やネットの世界が学習して生まれたのが、デジタルモンスターという存在だ。ゆえにと言うべきか、されどと言うべきか、デジモンは個体ごとに「誕生」「(自己)進化」「死」を備える。デジタマという卵から孵り、一世代で進化し、デジタマに還るかデータに還る(消滅)。この自己進化する点がコンセプトを冴えさせる。前述の進化段階「幼年期1、幼年期2……」は世代という。同一個体なのに。と言ってもポケモン以後のコンテンツなので、新鮮味はそんなにない。デジモンの「進化」は生物の進化evolutionと異なるので、英語では「digivolution」と呼ぶらしい。デジモンは海外の方が熱量がありそうで、ファンメイドのデジモンwikiがわかりやすいのでURLを貼っておく。https://digimon.fandom.com/wiki/Digivolution

『フロンティア』に話を戻そう。
主人公のうち、輝二、拓也は第1クールにして早くもビーストスピリットを得る。
(ビースト)スピリットについて。『フロンティア』のデジタルワールドは、人型デジモンと獣型デジモンが争いルーチェモンが収めた時代、デジタルワールドを治めるルーチェモンが闇堕ちし古代の十闘士が封印した時代、ケルビモン・オファニモン・セラフィモンが治めていた時代、ケルビモンが闇堕ちしデジモンたちの心理に悪影響を及ぼす、古代の十闘士の力を受け継ぐ十闘士までが悪と善に分かれて戦っている時代(ここが拓也たちの時代)と推移してきている。スピリットとは、古代の十闘士の力を2つに分割したものだ。2つとはすなわち、ヒューマンスピリットとビーストスピリット。十属性の闘士それぞれに2つのスピリットがあるので、デジタルワールドにはスピリットが20個散らばっていて、人間やデジモンはスピリットを手に入れると(現代の)十闘士デジモンになれる。ヒューマンスピリットのデジモンは、人型でテクニカルな動きが得意。あと悪に染まったデータを浄化する「デジコードスキャン」を行う際はなぜかヒューマンスピリットの印象が強い。ビーストスピリットのデジモンは、破壊的なパワーを誇り体躯も大きい。代わりに、人間が進化したときなどは本能に支配されて暴走を引き起こす。平成令和仮面ライダーの中間形態によく見られる暴走フォームがまさにビーストスピリットに当たると思う。敵味方関係なく攻撃してしまうような状態になるし、悪の十闘士・土のビーストスピリットのギガスモンは初戦では火光風雷氷のヒューマンスピリットの主人公デジモンたちに1対5で互角以上に戦った(グロットモン=ギガスモンがある程度活動を経ていてデータを食っているせいもある気がする)。
古代の十闘士エンシェント○○モンは『フロンティア』時期になって登場した。そのため、これまでのデジモンから系統を抽出し分類する行為を経てデザインされている。ここがおもしろくて、古代の十闘士から力を受け継ぐ十闘士もまた、かなり独自性のあるデザインながら、歴代主人公デジモンの要素をリミックスしているような印象を持っている。火のビーストスピリットで進化するヴリトラモンが本当に美しく、ある意味で『フロンティア』新登場デジモンを象徴すると思うので紹介したい。
ヴリトラモンの両腕の武器「ルードリー・タルパナ」は、パイルドラモンの腰の武器のような銃要素とウォーグレイモンの腕の「ドラモンブレイカー」、メガログラウモンの「ペンデュラムブレイド」のような剣要素を兼ねる。実際のところ必殺技として斬撃能力を持ってはいないのだろうけど、取り回しとしては近距離武器の機能を果たす。デジモンはモンスターでありながら武装化、兵器化することによって強くなるのだ。
翼は、歴代主人公の竜型進化系ポイントとして個人的に重視している。メタルグレイモンのぼろぼろの翼が好きだ。恐竜からドラゴンへ、モチーフを飛躍させる浮力を生むのが翼だと思う。パイルドラモンも竜と昆虫がジョグレス進化(joglessではない。joint+progressのjogressもしくはjogres。合体進化だね)していて、翼が重要な共通項として2体をまとめ上げている。合体などというぶっ飛んだトンデモを行っても空想上のモンスターを強力な憧れでリアリティの次元に繋ぎ留められるのが翼だ。特に今作は、人間がデジモンに進化する。自分がモンスターになれたら——わかりやすくやってみたいのは、やっぱり飛ぶことだと思う。
頭は、ドラゴンでもあり、悪魔っぽい造形。角と赤の縞模様が禍々しさを感じさせる。この縞模様の起源を辿るとおそらくグレイモン。ここでも伝統を意識している。3本角もグレイモン系列だろう、何を隠そうヴリトラモンの頭部は(玩具的事情で?)ほぼそのままエンシェントグレイモンの頭部でもあるのだ。角の生え方も見たい。グレイモンらしさで解決しそうな疑問を1つ持っていて、ヴリトラモンは邪悪さを持ちながらも正義側っぽく感じられるのはどうしてだろう。理由は、アーマーっぽさじゃないかと思っている。グレイモン、メタルグレイモン、ウォーグレイモン、特に、フレイドラモン。これらの先輩の兜を被っているデザインが継承されている。頭部が浮かび上がっている感じ、わかるだろうか。ヴリトラモンは近年の仮面ライダーにおける暴走フォーム的側面、デザインの恐ろしさを持ちつつ、ヒューマンスピリットのアグニモンとマスクを被っている(ヒーロー)共通点で連続性を保ち、正義側に立てるデザインが成立している。顎の黒いラインなど、よく効いているのではないか。
モチーフにも触れておきたい。魔人型デジモンアグニモンは、インド神話の火の神アグニだ。インド神話の知識が乏しいが、ゾロアスター教で火は善だったと思うので悪い神ではないはず。曖昧。一方の魔竜型デジモンヴリトラモンは、インド神話旱魃の怪物ヴリトラ。蛇神・邪神と言ってもいいんじゃないか。ヴリトラモンが歴代主人公のリミックスだという文脈でいうと、「魔竜型」は気になる。歴代デジモン主人公、実は高確率でパートナーを暗黒進化させてしまっている(ここ10年ではレアで『:』メタルグレイモン:アルタラウスモードは含まないなら『ゴーストゲーム』グルスガンマモンが唯一のはず)。ヴリトラモンは本来暴走ではないというかビーストスピリット自体が本能を暴走させる性質の正当なものなので、「暗黒進化」にカテゴライズされるべきなのか判断つかないが、ここでは暴走を暗黒進化としよう(そもそも暗黒進化自体、「間違った進化」ではない)。歴代暗黒進化の中で、邪竜型デジモンに分類されるメギドラモンはヴリトラモンと類似デザインと言える気がする。赤い竜で凶暴さを持っていて、燃えるような翼、爪・尾に見える鱗≒鎧のイメージ、ポイントとして白を使う色使い。また、メギドラモンの進化ツリーには成熟期に魔竜型デジモンのグラウモンがいて、なんとなく近さを感じる。
ヴリトラモンは竜型デジモンの祖とも言える古代の十闘士エンシェントグレイモンのビーストスピリットだ。歴代火属性ドラゴンの系譜を(後付けで)束ねた象徴的な1体で、デジモンデザインの凄み・おもしろみが詰まっている。それは他の十闘士にも『フロンティア』にも言えるように思う。

デジモンミュージック~スピリットエボリューション~

デジモンミュージックは『デジモン』とは切っても切れない重要な項目だ。長くなってしまっているのでできるだけ控えるが、『フロンティア』の曲・歌は、良曲揃いの『デジモン』でも最も僕の心を捕らえて離さなかった。
『フロンティア』の他『デジモン』への絶対的優位点として、故・和田光司の歌声をたくさん聴けることが挙げられると思う(『クロスウォーズ』も強い)。1話あたりで流される『デジモン』の歌は多くの場合、OP・挿入歌(進化曲)・EDで構成される。OPは多くの場合変わらず、EDは前期後期の2曲、挿入歌は進化方法ごとに設定される、という形が一般的だ。担当歌手がなんとなく決まっていて、『フロンティア』までの4作品だと、OPが和田光司、挿入歌が宮﨑歩ほか、EDがAimの担当だった。『フロンティア』はここでも異色で、前期はOP和田光司、挿入歌和田光司、ED和田光司の歌唱担当になっている。デジモンに詳しくないのでなぜなのかはわからない。和田光司祭りだ。他のデジモンシンガーの歌が聴けなくなっているので不満が出ておかしくないのだが、和田光司に想いを馳せる現在、この処置はありがたくも思える。
各曲を歌い出しだけ紹介し手短に感想を述べたい。
OP主題歌『FIRE!!』作詞・山田ひろし作編曲・太田美智彦「くすぶってた 胸に投げ入れろFIRE!!」。列車が線路を走るような一定のベースから始まる。歌詞は火に関するものが多く、汽車に燃料をくべてどこまでも走り続けようとするような地道な爆発力を感じる。和田光司のせつなくて熱い、ロックを歌っていてもバラードな歌声にマッチしている。OP映像では、サビ前の「叶うさ」「できる」を主人公5人が口パクしていて、これが不思議なほど勇気をもらえる。自身に言い聞かせている描写なのだと思いつつ、キャラが正面切って視聴者に語りかけてくる感覚があっていい演出。歌詞全体を見ても、実は彼我の境界が曖昧で、問いかけや命令の口調が目立つけれど歌い手が聴き手に語ると同時に歌い手自身にも自答しているように聞こえる。「“君を連れて”」は聴き手宛てでもあるし、弱い自分あるいは強くなった自分のことでもあるんじゃないかな。「a fire power」とは外から投げ入れるものでもありつつ内から燃え上がる消せない勇気。これはすごく、伝説上の十闘士の力でもありそれを使って進化した自身でもある作中の「スピリット」と似た感じがする。
挿入歌『With The Will』作詞・大森祥子作編曲・渡辺チェル「風を受けて立つ険しい崖では 自分の弱さばかりが見えるね」。イントロが個人的に最高で、デジモンのことを一旦忘れていた中学生初期の頃、脳内に蘇ってきたメロディ。人生最高の曲と言えてしまうのかもしれない、デジモンミュージックの中で一番好きな曲。ストレートに、逆境にある、でも物語上のヒーローのような奇跡を持っている、という決意をぶつけてくる。自分の中では、デジモンの進化曲を聴くと、進化できるというか、むしろ原初に持っていた可能性と憧れを思い出せる感覚が根付いていて、意志を持って変化に立ち向かえる勇気をもらっている。中でもこの歌は、逆境(起)決意(承)ヒーローの存在・変身(転)挑戦(結)と物語が成立しているため、勇者と同化する決意も嘘じゃないと思わせられる。
ED『イノセント~無邪気なままで~』作詞・松木悠作曲・千綿偉功編曲・渡辺チェル「ドンナニハナレテイテモ…」。遠く離れた場所にいる「君」を想う。実は(キャラソン以外の松木悠作詞のデジモンの歌全般を)難解だと思っている。たびたび登場する主語「僕たち」に「君」は含まれるのだろうか。僕たちが君を想い君以外の僕たちが新しい風を起こす、僕が君を想い僕+君(+他)=僕たちが新しい風を起こす、君以外の僕たちが君を想い僕たち+君=僕たちが新しい風を起こす、の3通りの理解ができるような気がしていて、それぞれ劇中の具体的な関係性にも当てはめられるので解釈に迷っている。僕の国語力の問題でもあるが、歌詞がそれだけ奥深いということでもある。
この6人の豪華さ、デジモンミュージックにおける偉大さは、知っている方には自明すぎるし知らない方にはピンとこないだろうから割愛する。というか僕がちゃんと知らない。すごすぎて計り知れない。ただ、名曲たちを聴くにつけ、誰が関わっていなくてもデジモンが令和に健在で新しい夢を届けてくれることはなかった気がするんだよと言っておきたい。
『フロンティア』に限らず、デジモンミュージックは元・現・選ばれし子どもたちに自分を進化させる力をくれる。外部刺激であり内部の光(もしかしたら音楽自体が人間にとってそういうものかもしれないね)。そういう意味で、スピリットみたいなものなんだ。ありがとうデジタルワールド、ありがとうデジモンミュージック。
いつかデジモンミュージックの歌詞についてだらだら感想を言う記事とか書きたいな。

いいかげん終わります

長すぎる。終わりにしよう。好きなものについて思うまま垂れ流しどこが好きなのか自覚する作業は楽しい。原点に戻れたような気持ちで、多少は元気になれたかな。一番大事な武器は心にあるから、知ってることが増えてくそのたびあきらめることを身につけたくないね。
各話について感想を述べる気力は若干なくなってきたのでまた視聴後に長めの記事を上げようかなと思う。

P.S. an Endless tale

「何処から 何処へ 時は流れてくんだろう?」
『フロンティア』の子どもたちは第1クール時点で1ヶ月以上はデジタルワールドを旅した。が、ネタバレだが『アドベンチャー』のように、現実世界での時間はほんの少ししか経過していない。この時間感覚が、子どもの時間感覚でもあり人の時間感覚でもあり、物語の時間感覚だと感じる。濃密で、飛び飛びだ。あっという間に過ぎて、ずっと残る。
省略のない物語は、存在しない。なぜなら飽きるから(笑)。いや観客や制作の事情だけではなくて、物理的にも観念的にも、たとえばカメラを回して何か出来事の一部始終を撮ったとて、その「物語の全部」を届けることは不可能だ。視聴者は、一瞬たりとも気を抜かずにカメラを視界として目撃することが難しい。その視聴者さんにとって、その出来事は自分のことじゃあないよ。よしんば完全な撮影・完全な視聴が成ったとして、「なぜカメラを回すに至ったか」始まりの物語が欠落する。

現実の現在に意識を戻す。
あなたはわからないけど僕は、あまりに無力な視聴者として、視聴者というか傍観者として、世界情勢など見てみる。でもそれは一部の切り取られた情報だ。量じゃなくて、質の問題でもあると思っている。僕は外国語ができない、人の気持ちがわからない。“そういう時”の常識を知らない、現実を知らない。歴史に疎い、人類に、疎い。
時が乱れていく。乱れってのが淫乱ならちょっとだけうれしい。酒乱ならじゃっかんめいわく。いや、戦乱の時代だね。パラダイスががらんどうになる前に、できることって何なんだろう。
その乱れがいつ僕の元に来るか。世界も人生も物語にたとえられるならば、物語の時間感覚は——。まだ来ない時空じゃなくて、今もしくは既にある話なんだぜお前が目を逸らしていただけで。そんな風にささやく声が内側から聞こえてくるよ。
「いくつの失敗(あやまち)を僕らはしたのかな?」「悲劇は途切れずに憎しみは巡る 悲しい涙はいつまで続くのでしょう」和田光司の歌声は不思議と内省を促す。
永い時を人類が歩んできた、ていうか流してきた。歩んでいくこれからも。その短い中で、動乱はあまりに多い。多すぎて動乱だけで有史以降の歴史を追えるし、それは乱れていない部分をカットすることでもある。何が有意味で正正確なのか(造語だと思う。無意味不正確を前提に振る舞うべきだと叫ぶ自分がいる)。見当もつかなくなる一方だが、未来は「フロンティア」、燻りを逆境を孤独を超えて拓いていくのだ。
ありがとうございました。We are(せーの)フロンティア~!

最後に、今回の記事で引用・表現の参考にした曲名を引用順に記しておく。あなたのためになるかはわからないけど、僕の希望だから……。
『Seven』『DiVE!!』『イノセント~無邪気なままで~』『The last element』『an Endless tale』『FIRE!!』『With The Will』『ターゲット~赤い衝撃~』『勇気を受け継ぐ子供達へ』『grace』