【感想】ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』

本の感想

きっかけ

本記事は『仮面ライダー』、『仮面ライダー響鬼』、ED「少年よ」への悪口を含みます。
「レベルアップ」などに代表されるゲームの「成長要素」、その源流に興味が湧いたため読んだ。
ゲームの成長要素はなくてはならないものかというと、「作品による」だと思う。あっておもしろくなっている傑作やあることを前提に作られている傑作が多すぎて、僕はやりたいゲームを夢想するときに(システムやプレイヤーの)成長から考えている。まだおもしろいゲームを創造できる段階にないので、その思考法が合っているか間違っているかはどうでもいい。
純粋に、自分が「成長」と「物語」とを結びつけているのがなぜなのか考えたかった。読んでよかった。

概要

本書『ふしぎなふしぎな子どもの物語 なぜ成長を描かなくなったのか?』は、題の通り、戦後に本邦で受容されてきた子ども向けの作品を通時的に紹介していくサブカル論になっている。章立ては、テレビゲーム、テレビヒーロー、アニメ(男の子編)、アニメ(女の子編)――魔法少女世界名作劇場、マンガ、児童文学、子どもの物語たちが示すもの。媒体ごとに具体例を挙げているので読み応えがあって単純に楽しかった。副題の「なぜ成長を描かなくなったのか?」をテーマに、子ども向けの物語(を与えてきた大人)の姿勢を分析していく(が、この成長の問題の結論は、筆者にも出せていない、誤読でなければ)。
最重要点として、「いつ」の視点で述べられているかが気になる。時代性。2011年の本だよ~。僕の読んだ第一刷は2011年8月20日発行となっていて、あとがきには校了後に東日本大震災が起こったと書かれている。震災直前の世界の視点であることは、ひとつ重要な価値だと思われる。個人的には、その震災前の本においてあとがきで震災直後の子どもの姿や見られ方、子ども向けの物語の行く末に触れていることに感銘を受けた。最新の情報を載せよう見つめようという誠意があるし、後の時代の人間に託すメッセージとして適切だったかと。

僕の守備範囲

ゲームから本書を手に取りつつ、『機動戦士ガンダム』や『仮面ライダー剣』、『ウルトラマンネクサス』の話に興奮した。
ガンダム』シリーズでは、大人の不在を再確認できて、イマイチ言語化できていなかったガノタが卒業しない理由にまで思考を深めてもらえた。
『剣』『ネクサス』では、過去のシリーズからのヒーロー観や結末の破壊的な変化を説明していた。
『剣』以上の好例がありそうに思えた。僕は剣崎一真を完全な「職業ライダー」に分類することに抵抗があるし、仮に最初にそう提示されていると見るのであれば終盤の彼は「成長」の結果としなければならない(もっとも、本書は『剣』について成長を描いていないとは言っていない)。
『ネクサス』の試みについての説明は概ね肯定できた。その後のウルトラシリーズにも触れていて、それらやニュージェネがある未来から見ると、結局のところ『ネクサス』はおそらくウルトラマン分水嶺ではなくむしろ異色作になるのだろう。しかしながらウルトラマンの歴史において本書で指摘されるような試みがなされた時代ということはたしかに重要で興味深い。僕はウルトラマンにあまり詳しくないのだが『ネクサス』は一番好きな作品で、本書は指摘こそすれどの作品のことも批判しないでいてくれるから読みやすくてありがたい。実は本書を見つけたきっかけは『ネクサス』のWikipediaを見たことだったりする。余談だけど『ネクサス』への個人的見解としては、姫矢も憐も西条さんも孤門も喪失からの回復という型の成長物語になっていて、戦うことを通して自身や周囲の人間が持つ心の力(諦めるな!)に適応することで不可逆的な喪失を乗り越えていく話だと思う。本書での着眼点は主人公(孤門)が中心かという点と戦いや怪獣が人々に開かれたものかという点であるので、僕の見解と特に違わないけれど、結末については若干解釈が異なる。『ネクサス』のラストはやっと視聴者にウルトラマンへの変身を夢想することを許したということで、シリーズ他作品で当たり前にあったウルトラマンである権利を、視聴者のところまで運ぶリレーがデュナミストたちの戦いだったのではないかな。ウルトラマンノアは、ノアという選民的な名の、洪水を乗り越えて地上に繁栄をもたらす者としての側面を象徴しているように思う。君も諦めなければ光を放てるという、普遍的な、ウルトラの星で自明の真理を視聴者まで届けるために、ウルトラマンは何人もいるという相対化を試みた作品に見えている。成長を描かないと言われればたしかにそうではあるのだが、コンセプトとしてそもそも結果としての成長よりも成長・変身の前段階をしっかりと描いた作品だったのではないか。だから苦しく、尊い

良かった点

仮面ライダーの話には後で戻るが、一旦本書への感想そのものを完走したい。
執筆当時既にフェミニズムサブカル論は日本でも力を持っていてそんなに特別な視点でもなかっただろうけど、支持を集めている作品や筆者が親しんだ作品について女の子の描き方が女の子向けではないことを指摘しているのは納得感があった。
作品や社会のここがダメという口調ではなくて、女を性的な属性・成長で描いてきたよね、男の子向けが優先されてきたよね、女の子向けを確立するためにこういう段階が必要だったよね、大人の男が作った女の子向けに元々あった要素で作った男向けの魔法少女ものはオナニーに使われることもあるだろうね……という、冷静な事実の確認が多くあった。
批判や否定がいけないとは思えない。一方で、冷静さを欠くよねっていうか読んでるこっちは冷めるよねというのは感じてしまう。特にX(Twitter)(TwitterをXと表記しかつわざわざ括弧つきで言及することで時代性を表現)とか見ているとね。
特定の対象を批判しようという目的意識を持つと、その対象を特定の何かとして具体的に象らせる必要が出てきて、批判対象を貫通する一定の性質を定める責を負ってしまう。これが重荷となって、被批判側(擁護側)は議論のための議論を展開し延々と結論を先延ばしにできてしまう。本質を突いて論破してやろうという姿勢は本質的な議論からむしろ遠ざかる。だから良くない。
ある対象から何らかの性質が抽出できたとして、それが関連する他の対象にまで当てはまるかは本当のところかなり難しい。具体例に対して具体的な要素を並べる本書は客観的な分析に成功しやすいと感じる。

まとめ、成長について

肝心の「成長」について。
子ども向けの物語において成長とは、子どもが大人になっていくことだ。
時代背景やら経済的チャンスやらによって、小さな大人ではない「子ども」という身分を設定した。同時に、「大人」という身分もまた自動的に設定された。「大人」はたとえば我が国では成人年齢が決まっているので全員が強制的になれるもの。
では、身分としての「大人」ではなく本質的な大人に成長するにはどうすればいい?
「大人とは何なのか」「なぜ大人にならなければならないのか」などの「成長」の根本を子どもに見せられていない・見せられなくなっていったのが現代の子ども向けの物語ではないかと本書は問いかける。
僕が味わってきた平成時代の作品は成長からの脱却(まあぶっちゃけ放棄だよね)後の物語に位置するので、正直なところピンとこない。成長を内面の変化くらいに捉えてきていて、そういう意味では僕の好きな物語のキャラクターたちは成長している気がする。でも、心当たりも無いではないので一旦受け入れよう。成長を描いていないこととする。
DRAGON BALL』と比較する形で、『ONE PIECE』のルフィを最初から無敵で成長しないキャラとして例示していたが、たしかに昨今の少年マンガで「修行描写」より「戦いの中で成長する」の方が(主に密度の面で?)好まれているような感触はあるかもしれない。実践よりも、実戦あるのみ。
本書では、成長が描かれなくなった理由として、現実で、情報へのアクセスの簡便化によって経済や情報量の面で大人と子どもに差がなくなってきたために、「大人」を大人らしい大人(成熟した、安定した……)として繕えなくなったことを挙げている。陳腐で、その分ある程度確からしい理由じゃないかな。
「なぜ成長を描かなくなったのか?」の明確な答えは出されていない。思考材料を代わりに集めてくれるのが本書の仕事という感じ。こっちの思想の邪魔をしてこない筆致なので余計にそう感じる。
総合して、特に子ども向けのアニメや特撮に興味がある人は読むと何か考えが深まるかも。キャラクターよりもキャラ(マスコットキャラのような物語抜きで成立するキャラクター)の方が好きな人にはピンとこないかも。あとはやっぱり自分や社会における大人への成長に疑問や不安がある人にはおすすめしたい。思春期の時の僕が読むと喜びそうだな。

 

僕の観想

僕の世代の子どもたち

ここから僕のターン。僕は、(成長が描かれなくなったかは置いておいて)自分と同世代の「子ども」については、「昔よりみんなが賢くて現実や世界を直視できてしまう」と「大人」に説明してきた。同等に陳腐で、根拠は同じく情報の近さと広さが上昇したから。強いて加えるならば、生まれてこのかた(平成生まれって年齢=失われしウン十年ドンピシャ)経済状況が好転した経験がないから。僕は20代後半なんだけど、まあ35歳以下の日本人は総じて就職氷河期じゃないにせよ親よりはサムイ時代を生きてそうなのよ。難しいね、生活水準や娯楽は確実に良くなってるはずなんだけど、普通に生きているだけで世界の暗いモノ・コトにちゃんと触れられるようになってしまった。生まれつき嘘を嘘と見抜ける人。物語って、ウソやからね。

なぜ成長を描かないのか? 色んな説を立ててみる

身も蓋もないが、成長が描かれなくなったことは子ども向けの物語が経済チャンスとしてビッグドリームではなくなっていく現実の過程と一致しているかもしれない。【成長が描かれないのは、経済成長の絵が描けないから】という説。閉塞感からくる絶望的な悲劇を避けようとして、作り手は成長や決着を描くことから逃げてきた。
他には、【成長を描く結末は既に世に出ているので、新規性を考えると選択肢に入らない】説。やっぱ見たことないもの見せたいじゃん、新しさがないと企画にならないじゃん、って。この環境だとマイナーが主流になったときのマイナーチェンジとしてのメジャー展開が普通にありえる手になってくるし、ウケればメジャーな成長物語がまた主流に返り咲いたはずで、時代の傾向として成長が描かれないという感覚にはならない。ちがうんだろう。そんなに単純な小手先の話ではない。
【人間が成長しなくなったから】。上二つの説のハイブリッドで経済面と新しさの問題。レベルカンストだから今の子どもに対して今以上のプラスを提示しにくくなった、現実が逃げたい場所ではなくなった。だって平和が一番。もちろんこれは、今の視点から見れば幻想であることが確定した。東日本大震災や、やはりコロナ禍・元首相暗殺事件・ロシアによるウクライナ侵攻によって。京アニ放火事件も本書の分野をカバーしている大人からすると印象深いだろう。現実世界は平和から遠い。虚構の世界は脆い。あまりにも。ただ2011年まではなんとなくそういう気運があったのかもしれない。「ゼロ年代の子どもって恵まれてるよね/かわいそうだよね」という過去の子どもによる実感。ま、でも、この僕の論は阪神淡路大震災とか地下鉄サリンとか90年代後半の大事件を無視しているので微妙に成立しない気もするが。悲劇による消費者側の絶対的変化が薄まっているとすれば、【子どもの関心が低くなったから】。感受性と言ってもいい。ほとんど情報アクセスの簡便化云々と同じ話だよごめんなさい。子どもは(大人も)様々な世界中の事件のみならずSNSなどで身近な人や社会の普通関わらないに人の個人ニュースに繋がれるようになった。これらの「物語」を味わっているので、あえて子ども向けの物語を鑑賞しなくても満たされている。無関心になっているんじゃなくて、量的な問題としてキャパオーバー、だから劇的な変化に感情や思考のリソースを割けない。
消費者ではなく提供者の側のマターって可能性も同程度にある。うーんこれはそのまま令和の作り手や作品群への非難になってしまうのだけど、現実的な一大悲劇を経験してもなお現行の作品は、おそらく成長を描くようになってはいない(本書でも僕も成長を描かないことが悪だと言ってはいないことに留意されたし)。しっかりと子どもから大人になることを描き切る作品よりは、続きが作れるという意味での希望を持たせた作品が多そうに思う。キャラIPビジネスの隆盛も背景にあるだろうし、懐古主義的な消費者も目立つ。あくまで勝手な肌感覚だけどね。『ポケットモンスター』サトシはワールドチャンピオンになってもポケモンマスターへの旅はまだまだ続きそうだし、令和になってから再アニメ化がいくつあったかわかんないよ。
ただし、近年の大ヒット作で言えば『鬼滅の刃』はきっちりと話を畳んで炭治郎たちを戦いから卒業させた。また、アニメ『鬼滅』に象徴性を感じるのは、深夜アニメでありながら全年齢(以前からあったであろう小学生のマセガキオタクが深夜アニメを観るにとどまらず、現役のベテランや高齢者まで含めた全世代)が楽しんだ点。このことは、本書で指摘があったような、大人が卒業しない状況でありまた子どもに大人とあまり差異がない状況であるということを表すかもしれない。
つまり、「子ども向け」と「大人向け」に差がなくなっている。そういうことかもしれない。あらゆる子ども向けの物語は、元来大人の視線を意識していたが、今般(というか先般)大人の消費者の存在が自明の理となった。【大人も楽しめる物語や大人向けの物語に「子どもから大人への成長」は必要ない】の、だろうか?

仮面ライダー響鬼

こっからは読まなくていいよ。
僕も筆者のひこ・田中先生みたいに作品を分析して成長を描かない物語を探してみたい!『仮面ライダー響鬼』でやってみよう。
ここだけの話、僕はいまだに精神的にも経済的にも自立した大人になれていない。大学3年生の頃、大人になることに悩んだ際に、リアルタイムぶりに『響鬼』を観なおすことにした。
響鬼』は青春成長物語でありながらも視聴者の投影先である主人公の明日夢が戦わないし明確な未来も描かれないので、本書の分類では「成長」を描かない物語なのかもしれない。また、ヒビキたち鬼(この世界での仮面ライダー)は「職業ライダー」だ。企業には所属していないが魔化魍(怪獣・怪人)を解決する人々の集団である猛士の一部として動いている。鬼は全員、個性的でありつつも一貫して魔化魍を鎮めることに集中していて、他の平成仮面ライダーとちがいライダーバトルが無い(鬼の道を外れた者との戦いという形でのライダーバトルは存在するが)。レギュラーメンバーがめっちゃまともであることは異色だ。鬼が大人として安定しているということであり、『響鬼』は「子ども」と「大人」が分節された世界だと言える。

響鬼』の子ども

大人との境界にいる明日夢、あきら、(トドロキ)、京介は大人の鬼の背中を見ながら自分と向き合い、道を決める。トドロキは能力や年齢的には完全に大人で、再起と師からの独立を果たすことで自立するので子ども役でもある。ある意味でトドロキこそが「成長」が描かれたキャラクターだ。明日夢たち他の子どもは道を決めることを成し遂げたものの、その先どうなるか自分の物語を閉じていないので、たしかに「成長」ではないかも。

響鬼』の大人

主人公を明日夢ではなく(後半影薄くなるもん)、響鬼=ヒビキ=日高仁志と見るとどうなのだろう。ヒビキは師匠なしで鬼になり活躍できているスペシャルな人材で、主役を張るキャラクターに足る要素としてはこの特別性が大きい(人格的にも優れているが、第二例がイブキとなりヒビキと性格の良さや少しずれているところがキャラ被りしている)。師匠がいないために、明日夢のような準弟子が現れると、師弟関係に手こずるようになる。ヒビキは明日夢にアドバイスしたり人間として友情を深めることはするが、師匠としての能力や経験値だけは乏しい。そんなヒビキが明日夢を「少年」と呼ぶことは「子ども」だという宣告にも聞こえる。一種の突き放しに近い。鬼とは職業なので、自己決定・自己研鑽を経た明確な「大人」。そのため、自己を規定できない(師匠離れできない)者には一人前の鬼になることはできない。明日夢自身が鬼向きの思い切りのいい人物ではなくむしろ思い悩む少年らしい少年である以上、ヒビキの突き放しは正しい。弟子入りは鬼になると決めてしまった若者にふさわしく、その意味では消防士だった父という問題の一本槍でできている京介が弟子になり人格的に成長して鬼になることは妥当なモデルケースだ。とにかくヒビキは、師弟関係を基礎とする鬼の世界で異質・未熟であり、弟子を鬼(変身体)にまで育て上げたので、成長が描かれたと言ってしまえる。が、京介のテコ入れありきのもので、主題である明日夢との決着は、鬼にならないが弟子という『剣』の戦いを終わらせない結末に近い。他の平成仮面ライダーと同程度に成長を描ききれていない。

変身の不在

響鬼』の鬼は、「変身!」と叫ばない。どこまでも日常に接した物語として在る。「変身!」の不在は、変身≒成長の不在なのかもしれない。
他の平成仮面ライダーでは、未成熟な仮面ライダーは結構いる。怪人に憑かれて変身する18歳、魔物の力を借りて変身する20歳、2人で1人の仮面ライダーになる年齢不詳の少年、部の仲間と出会って変身する17歳、自分や偉人の魂で変身する18歳、仮面ライダーの力を使って変身する18歳など、1号ライダーに限っても20歳以下の戦士は意外と多く、そして全員が立派に自己を発見し何かを救ってみせた(20歳で姉と同居していた葛葉紘汰を除外したが、これは僕が『鎧武』を好きではないという事実とは関係なく、紘汰さんが精神的に割と自立していることがチームとの関わりによって示されていると感じたため)。彼ら(平成時代の法律上)未成年の主人公は、他者の力を借りて変身する要素が目立つ。変身とは、パワードスーツを着込むだけではなく、自己変革だ。それには他者との関わりが必要になってくる。言い換えれば、別に独力で変身を果たす必要はなく、他者の力を借りながらでも世界や暴力や自身と向き合っていけば自力で救世主になれる可能性が示される。OJTだ。15歳の明日夢にも、そのルート分岐がないわけではなかった(ifのお遊びだが、てれびくん公式のハイパーバトルビデオでは響鬼に変身しディスクアニマルの力を借りて装甲響鬼に変身している)。当初の予定では明日夢はもっと早くに弟子入りし最終的に鬼になる予定もあったという噂もある。正史の鬼にならないという選択も立派な自己決定ではあるが、視聴者の子どもと同じ目線に立つ主人公でありながら視聴者・作り手・世界にそれを許されなかったとすると、変身できる方が成長物語として真っ当ではあると言いたくなる。
なぜ明日夢は鬼に変身できないのか。やっぱりヒビキの師弟関係がそうさせるための完全な形ではなかったことは大きく、悩む主体が明日夢(前半)からヒビキ(路線変更した後半)にシフトしたと捉えられる。ダブル主人公の物語の中で、メイン主人公の簒奪が行われた。前半がウケなかったことによって路線変更を余儀なくされたのなら、この責任は視聴者にある。『響鬼』視聴者(半分くらいは子ども)が、明日夢の成長物語を見守り続けることを良しとしなかった。それが成長を描けない世相・時代性でなかったら何なのだろう。というわけで、『響鬼』は「成長を描かない物語」の好例なのかもしれない。

「少年よ」に見る『響鬼』と大人の問題点

正直に申し上げると、それでも僕は『響鬼』が好きだ。一番好きな仮面ライダー作品ではないが、前半も後半も両方が好きでキャラクターが好きた。成長もしていると思う。最終回以外は全部好きかな、最終回はそれこそ結末を放棄した印象も少しある。
一点だけ裏切られたのは、実は前半のエンディングテーマ「少年よ」。
音楽に疎いので全然知識はないのだがその狭い知見の中で一番好きな作詞家は、藤林聖子だ。平成仮面ライダーが好きだからそう思っているのか、むしろ藤林聖子の詞が良すぎるから仮面ライダーを好きなのか分からない。そのくらい好きだし深みがあり物語に合っている。常に100点を超えてくるのが藤林聖子の書く特撮ソング。「少年よ」も例に漏れず最高。布施明に歌ってもらうとより心に響いて、伸びやかに気持ちを未来へ向かせることができる。
しかしながら。「少年よ」の歌詞は、ヒビキの如く、具体的な個人の悩みに対して具体的にどうすればよいかの指針は無い。そう思う。「透明になったみたい」な感覚の少年に示す対処法が「旅立つのなら晴れた日に胸を張って」「心が震える場所探して」「誰にも出来ないこと見つけ出せ」は大人としておかしい。旅立つかどうかを少年に委ねて、晴れた日が来なければどうする? 旅立たないならどうする? 心震える場所なんて無かったらどうする? 自分にしか出来ないことなんて無かったらどうする?
“それ”が不安だから自分を見失っているのに、大人はいつも子どもの救済を未来に託す。希望的観測が過ぎる。ヒビキもそうなのだ。辛い今をしのぐ気分転換までしか教えてくれない。物語とは具体性だ。受け手にとって正しいか否か、役に立つか否かにかかわらず、絶対的な主人公の成長を描く。そこに受け手の意思は介在しないから、受け手は自分で何かを引き出して成長していく。抽象的・相対的であることは、成長物語としては悪なのだ。

悪しき相対の権化としての平成仮面ライダー

ここでなぜ成長を描かないのかについて、もう一つの説を打ち立てられる。
【受け手の支配率が高くなったから】。支配率というのはサッカーのボール支配率のようなもので、要するに誰が物語を運んでいるかということだ。読者や視聴者の声にちゃんと耳を傾けるほど、作り手の支配率が下がる。その問題点として、船頭多くしてゴールが決まらない。シュートが的外れになるだけでなく、ゴールポストの位置が不定になる。動き続けるゴール、無限のロスタイム延長戦。子ども向けは元来楽しんでくれる子どもたちのためを思って大人たちがつ紡ぐ物語なのだ。それは経済的にもそうで、ジャンルとしてスポンサーやかメディアミックスや関連グッズといった商売に直結して成り立っている。子どもたちのために成長の物語を始めるが、ほかならぬ子どもたちのために他のジャンルよりも物語を支配されやすい。それを何世代も重ねた結果、【構造的な問題として子ども向けこそ成長・卒業などの確定的な結末を描きにくい】側面を持つ。
平成・令和仮面ライダーの醜さを見てほしい。1年間戦い抜いたはずなのに、最後まで成長したはずなのに、夏になれば最終回後の映画が当然のように作られる。最終回と同時にVシネマの番外編が宣伝される。次の年の後輩作品の映画で再集合して元気な顔を見せる。10年か15年か20年すれば、後輩作品か映画か正統続編で活躍する。そして最大の醜さは、その全ての機会で、レギュラーの仮面ライダー誰かが必ず「新フォーム」を得てしまう。必ずだ。この新フォームは、新たな変身、本編以上の変身であるから、1年間の物語の結末=成長が実は不十分であったことを後付けで証明する。これが成長の否定・阻害でなくて何なのか?
なぜここまで悍ましい、子どもの発達に良くなさそうな(笑)ことが罷り通るのだろう。答えは明確で、それがウケてきたから。お客様の喜ぶことをして、実際に喜ばれて、しかも儲かるのだから、その努力を怠る作り手がいたらそれこそ醜い馬鹿だろう。正当な、正のフィードバック・顧客とのコミュニケーションの流れによって、本編の物語をコケにする最低の再登場が繰り返されてきている。東映バンダイは、キャラクターの基本的人権とも言うべき成長・物語を破壊して、仮面ライダーたちを玩具にしている。しかしそうして玩具にされることで、彼らは子どもたちを側でずっと護ることができている。そのカタチはヒーローとして間違っていないのだ。記録媒体や変身アイテム、人形となって記憶に留まり続けることで、子どもはそのヒーローから勇気などを学び取り続けられる。消費者の成長や願いファーストになれば、自然とキャラクターの物語からは成長が嘘にされていく。

僕の説まとめ。「なぜ成長を描かなくなったのか?」

成長が描かれないのは、経済成長の絵が描けないから

成長を描く結末は既に世に出ているので、新規性を考えると選択肢に入らない

人間が成長しなくなったから

子どもの関心が低くなったから

大人も楽しめる物語や大人向けの物語に「子どもから大人への成長」は必要ない

受け手の支配率が高くなったから構造的な問題として子ども向けこそ成長・卒業などの確定的な結末を描きにくい