非人道的生き方をしている

あらまし

https://www.japanforunhcr.org/campaign/ukraine

最大の関心事というと今はウクライナ情勢だと思う。

鈍感な僕も流石に気になっている。夜眠れないほどではない。ないけど、白昼夢を見られないくらいには落ち込んでいる。わたし白昼夢を見る能力があるの。

うそよ、嘘だけど、創作意欲みたいなものが座り込みデモを始めやがって、羽根(翼じゃない。2㍉くらいの羽根しか持ってない)をもがれたような気持ちでいる。

 

それなりに深刻に捉えて、大人だし、募金でもいっちょやってみっか~と手を出して、また自己肯定感をごっそりと削られてしまった。どうしようもないので記事にする。

募金のススメ

募金や寄付をするのに大切なことは、いくら出すか、何に出すか、以上に、どこに金を渡すか、だと思う。

寄付金が悪事に使われてはならない、詐欺に遭ってはならない。だって思いやりの心でお金を出して不当な使途に消えたら、人道が廃れるでしょうが。日本国の私有財産を(廃棄する手間やコストもろとも)外に放出するということに慎重にならなければ、迷惑な自己満足で終わることも僕はあると想像している。ケチだけど、お金を出すということには責任がある。

思いと金、どっちも重いよ。思いから出た金は重いよ。それで自分をいい人と思い込むことや企業などが広報に利用することを一切糾弾しない。しないけど、ふつう、個人レベルでの寄付は善人面するためじゃなくて人に幸あれと願ってやっている。道楽ではなく救助を実現するための現実的な手段。何を使って世界に光をもたらすかが問題だ。そう、天岩戸からアマテラスを引き出して世界に光を取り戻したオモイカネのように……

募金先の選定

で、とりあえずの募金先として3つ考えた。まあ平凡。

在日ウクライナ大使館https://twitter.com/UKRinJPN/status/1497100158693416961?cxt=HHwWgoDRgbKq4sYpAAAA

国連UNHCR協会https://www.japanforunhcr.org/campaign/ukraine

日本赤十字社https://www.japanforunhcr.org/campaign/ukraine

ウクライナ大使館は、直接的な国家への援助になると思う。使い方をウクライナが決めるため、現地人の需要に沿った支援になりやすい可能性が見込める。一方で、主権や存亡をかけた戦時中の国家だ。そこにお金を振り込むことはロシア兵を倒すための資金にまずなるべき(適当ではない。推量もしくは当然の助動詞べし連体形)で、僕は怖かった。

UNHCRは、国連難民高等弁務官事務所。難民の問題を解決する。国連UNHCR協会はそれの日本における国内委員会であるNPOらしい(wiki調べ)。難民支援ということで、シリア危機に募金すればシリア難民、ウクライナ危機に募金すればウクライナ難民への支援になる。ただし使途内訳はこのNPOの采配に任せることになる。

赤十字は、医療の印象が強い。今回の募金募集は、「赤十字国際委員会国際赤十字・赤新月社連盟、各国赤十字社が実施するウクライナでの人道危機対応及びウクライナからの避難民を受け入れる周辺国とその他の国々における救援活動を支援するため」らしいので赤十字関連の救助活動に充てられる。もちろん日本赤十字社の活動(たぶん事務とかね)にも使われ、国連UNHCR協会と同様悪く言えば中抜きがあるのだろう。

当時既に日本赤十字社の募集も始まっていたのだが気付かずに、どこへ金をやれば良い・善いのかわからぬまま、二択で国連UNHCR協会を選んだ。今回に関しては(実際には繋がりが特にない気もするけど)国連支持の政治性を込めたので、UNHCR赤十字だったと思う。

 

他は調べていないのだが、国連UNHCR協会への寄付は寄付金控除の対象になると記載されている。

これが自尊心を傷つける。わし、実は去年、所得税を払っとらん。いや、いやいやいや脱税してないよ? 恥ずかしい話、収入が少なくて、発生しないのだ。衣食住は親に甘えている。パラサイト毒息子。死んだ方がイイ。

じゃあ住民税はというと、寄付先がNPOなので無条件ではない。東京都にお住まいの方は所得税に加え都民税の寄付金控除も受けられるらしい。でも僕は都民じゃない。

よよよ。どうやらこの寄付で税控除を受けられない。貧乏人が人を救おうなんて、甘いのよ。赤十字なら住民税でも控除対象になったかも(小声)。

最低

税控除が受けられないことなど、そもそもどうでもいいのだ。見返りなく金を与えただけなのだから。問題は。自分の小ささにある。

寄付金額の話。

自由意志から寄付をしたので、当たり前だけど金額は自分で決める。払い放題ケチり放題。自分に失望し放題。

僕は——あんまり恥ずかしくて、具体的な額は勘弁してほしいが、僕は、毛布何枚か分しかお金を出すことができなかった。命を脅かされている人々に毛布しかやれなかった。なぜか。貯金が尽きるわけでもない、ほしいものがあるわけでもない。ただただ無気力に、僕がお金を生み出していないからだ。情けなくて仕方ない。人道的支援をやろうとして、自分が非人間だとわかってしまう。法的カウンセリング、社会心理的サポート、そういった毛布より必要だと明らかな例を目にしても僕には毛布が限界だった。僕のお金は実質的には親のお金と言えるから、あまりに自分でお金を稼いでいないから、自己決定権を阻害する。大問題だと思う。僕は力のないために、内に湧きあがった善意から逃げたのだ。善意から目をそらすほど非・人間的な、堕落した態度はないと思うね。他人事のようだが、軽蔑する。

仮に控除が受けられたとして、雀の涙ほどにもならない。それはそのまま、僕の支援が雀の涙ほどもないことを示す。こんなことで人助けをしたと思うなよ! 余裕のある人がケチって1000円だけ募金するのとは違う。僕は1000円より多く募金したがそもそも施しをできるほどの成果も頑張りもないんだ。それなのに1000円程度に収めない分不相応な自意識がなお腹立たしい。

とにかく悔しい。僕は人間並じゃない。畜生だよ。食い潰すだけの虚しい存在。

募金するほど立ち直れた要因

2月の終わりに、妄想もできなくなって、ゲームの他にはトルストイ『光あるうち光の中を歩め』を読み始めた。たった120ページの本なのに3月初頭にやっと読み終わった。読解力の衰えを感じる。

学生時代に学校の近くの教会でなんか古本市がやっていて買ってしまった。同時にキルケゴール死に至る病』も買って、こっちは講義を取る程度には興味があった(その講義も5回は休んだけどネ)ので、学生時代にほんの少しだけチャレンジした。最高の睡眠導入剤で未だに50ページも読んでいない。堕落している。

光あるうち〜を読んだきっかけは、単純に何もかも近いうちできなくなる危機感を持ったからだ。ここが戦場になっても全然おかしくないと僕は思う。この13日ほどは毎日思う。あとは、手元にある唯一のロシア文学だったから。知らぬまま嫌うというのはちがう。

知って以来、題名に強く惹かれる作品だった。内容は、財産を捨てて原始キリスト教の生活をするのがいいと感じていても、若者も、家庭ある大人も、老人も、様々理由から今の生活を去ることができない・許されない。しかし、俗世の欲望のために暴力や競争や仕事に終始しても、幸福には至れない。現代のプロローグから、古代ローマ時代に話が飛んで、ユリウスという青年が何度も何度もキリスト教徒の集団と生活を共にしようとしつつ毎度医師やら自分の欲望やらに説得されて諦め、ずるずると俗人としての生活を続ける話がメインパートだ。いい加減にキリスト教徒になってくれと思うけど、それが狙いなのだろう。己のためだけに生きる人生は虚しい。満たされない。らしい。

原始キリスト教の教徒達で分け合う生活共同体が果たしていいものかははっきり言ってわからないどころか疑わしいと個人的には感じた。教徒集団の外の罪が露見するために排そうとするのだといった主張があったが、教徒集団の内側から生み出される罪に無頓着すぎる。つまり迫害される心配に対して無抵抗によって正しさを示すという対抗策が用意され、僕は極端だが一理あると感じる。一方で、自分達がいつか(未来からの視点なのでズルい見方なのだが)外界の人を殺戮するようなことが起こった時に、聖書や父子精霊は責任を取らない。ただ過去の罪を懺悔して濯ぐ道だけが示されて、未来の罪には関与しない。神の国の到来と死の克服という、さらに先の未来での救済だけがある。これは、自分達が小さな無力な集団である段階までしか考慮できていないのではないか。大乗的な、全ての人を救おうとする思想なのに。戦争を起こす考え方でもあるように思えた。もちろん、この世に戦争を起こさない考え方なんて無いし、戦争を起こされれば自分以外の何かを守る意思がある限り、抵抗して相手を傷付けるほかないわけであるが。

そんな愚痴がありつつも、非常な切実さで幸福を模索し挫折するユリウスの姿にはなにか感動を覚えた。あいつは人を一番未熟な時期に殺してしまっていて、いい人であっても善人ではない。時代が時代なので仕方ないのだけどその罪には向き合っていないし。いやまた愚痴が始まってるな。えっと、自分の幸福はどこにあるか考え、流されはしても目先のことをやる彼の人生を、虚しいと断じることはしたくないと思えた。

僕はどうだろう。作中と同じく光を宗教的な部分にあるとはしなくとも、同様に幸福をきちんと考えて悔いなく生きられているだろうか。ここでもやっぱり自信がない。非人間なんだ。

 

しかし、『光あるうち光の中を歩め』は活力もくれた。あんなに一つひとつの台詞が長くても読めるものができるんだと。あんなに先の読める話でも味わえるものができるんだと。素晴らしい思索。

非人道的生き方

人道行為に加担しようとして非人間性を自覚してしまうなんてのは、無気力無能力と、わずかばかりの敬虔さがいけないような気がした。

不器用で何もできない癖になんでもできたらいいのにと想いを巡らせてしまう。これは性質なのでどうしようもないのだが、であればやはり実態を改善しなくてはならないよ。こんなの、畜生道だもの。人間道の行いじゃないよ。

最低の気分だ。ウクライナが落ち着くまで食いしばり癖は治らないと予感している。悔しい、悔しい。

不安だ。戦争になったら、お話作るとかそういう不要不急で飯食おうって、できないよ。あ、今、文化は不要不急じゃない‼︎みたいな話、いらなくて、僕の生き方の話をしているので僕は有事の際にそこにしがみつけないだろうという話。そしたら全部死ぬ、僕の生きて考えてきたこと全部。他の場所で有事が起こってこんなに脆いんだから、きっとそうだろう。

そして、戦地の人。このブログの直近の記事は犬の散歩についての話なんだけど、犬を見て、戦地の人はペットを捨て置いて逃げるかなとかどうしても考える。光あるうち〜の出立みたいに、望まずに私有財産を置き去りにした人がたくさんいる。逆に全部を逃して残る人もいるんだろう。夢も生活も思い出も崩壊してしまうから、現在過去未来すべてを失って生きなきゃいけない人がいる。悲しい。僕は、何もできないね。

人間道に満たない僕の生き方はつまり人の道、人道からも外れている。自分の見えることだけ考えて生きている。人間は想像力の生き物、自己超克の生き物だ。それをしないから、非人間道は非人道的だよ。恥じる。早く人間になりたい。

P.S.思金

オモイカネは思金と書くみたいなんスけど、金は金じゃなくて兼ねッスかね。

あんだけの人(神)を動員して、きっと報酬はあったろうなあ。金なのかねやっぱ。

各員の取り分が気になる。個人的にアメノウズメはいっぱいもらうべきだと思うけど、結構みんな自分にしかできない役割を果たしている。長鳴鳥とか不可欠。

もしくは、報酬は地位(属性)だったという妄想もしたくなる。どういうことかというと、神の名前ってたとえば天照のように表意的に名付けられているので、実態が先立って、名前になっているという説。桃から生まれた=桃太郎。

オモイカネは名もなき思慮深い人があの事件で綿密な策略を立てた実績に基づいて思金として記録された。みたいな。すると桃太郎は鬼殺太郎とか鬼滅太郎になるのか?

古事記は神話ではあるけれど支配者が編纂していて、成し遂げた者の物語。ゆえに何もやっていない無辜の無能者は記録されない。記録されること自体が、報酬に近いのかも。

With The Will』という大好きな曲の歌詞に「伝説には無数のヒーロー 絵空事と言ってられない」というフレーズがある。ヒーローになれないと気付いてしまっても、意志を持って何かやるしかない。「一番大事な武器は心にあるんだ」……

こころばかりの寸志を遣って人道・人間道を歩んでゆきたい。否応なく修羅道に堕とされる人がいる。非人間であることはたぶん言い訳にならない。