びわ

 80歳の祖母から今年もびわを貰った。

 最近の話ではない。5月の末のことだった。

 

 父方の祖母は、僕の家の隣に住んでいて、というか両親が祖母の家のすぐ隣に家を建てて、幼少期からお世話になっている。

 祖母は利発な優しさを持った人で同年代の人より元気で、習い事の送り迎えをしてもらったこともあったし料理をいただくこともあった。てきぱきとした人だ。祖母の大きな家は、3歳の時に祖父が亡くなっているから、僕にとって先祖・氏族なるものとの接続を感じる場として機能してきた。12歳の時に曾祖母も亡くなったから、そういう意識が強い。祖母はよく、おじいちゃんが生きてたらなあ、海に連れて行ってあげるって約束したのになあ、とこぼした。亡くなった人の部屋がある程度そのまま残してあって、僕と祖父とのつながりは思い出よりむしろゴルフのトロフィーとか本棚の書物や俳優名鑑で担保される。

 祖母の家で好きな場所は、庭だったかな。結構広い庭で幼い身体だと探検気分が味わえた。離れの物干し場にアスファルトのタイルが敷いてあり、色味や模様が遺跡のようで、ゲーム脳を働かせるとタイルを動かしてヒミツのゲートへの仕掛を作動させる妄想ができた。苔の茂った小さな林になっている部分には今の僕の体より巨大な岩が置いてあって、それも戦隊ものが好きだった僕は犀のメカの顔になる気がしていた。母屋の物干し場では2歳のとき人生で初めて蟻に咬まれた。小さい存在にいたずらすることの痛みを覚えている。庭にある蔵は、中に入ると驚くほど真っ暗で怖くて、大きくなるまで二階に上がることはなかったから何か恐ろしく値打ちのあるものが眠っていると思い込んでいた。

 場は思い出の楔になる。もっともっと色んなことも体験した。

 

 祖母の家を少し自慢に思えていた場所があって、それは小さい畑だ。畑には、樹が植わっていて、八朔、花梨、金柑、そして枇杷が今でも生きている。

 曾祖父辺りが食べた果物の種を植えたら生えてきたものだそうで、本格的な栽培や世話はしていない。この畑から採れる実が美味しくて、うーん八朔はすっぱいかもしれない。大部分は案外美味しくて、これらのマイナー果実を他のメジャー果実と同様に毎年一回は味わってきた。今思えば贅沢なガキだ。

 中でも枇杷が好きだった。びわは幼少期の思い出を帯びる存在であるから、以後祖母の枇杷を「びわ」とひらがなで表記する。ちなみに、僕の好きな果物は梨、びわ、桃、パイナップル、蜜柑。嫌いな果物はバナナだ。好きな果物はちょっとこれ以上絞り込めない。フルーツ、好き~~。

 祖母の家のびわは甘かった。売り物と遜色ないので僕は枇杷を買って食べたことがないし、頂き物の枇杷に心が動いたこともない。とても少ない機会の内では、あのびわよりも明らかに美味しい枇杷を食べたことはないと言っていいと思う。祖母のびわも美味かった頂き物を植えてできているので流通品よりも美味いと豪語する程ではないが、同等だ。

 こう言っては流通する枇杷にありがたみがないように聞こえるがそれは違う。そもそもの枇杷の話だ。香りは芳しくも爽やかで、甘さがしつこくない。枇杷が初夏に生ることはこの惑星を神の御業と信じる人を許容できる何億かの要素の1つだ。初夏に合う果物だ。枇杷の実は、2~4の種子を抱える子房を軸に、果肉が纏う。皮は薄くぴったりと果肉を包む。この構造が、とても食べやすい。枝を取り除くと接続部が実の穴となって窪むので、そこに爪を挟んでやると、枝側から先端にかけて皮を剥がすことができ、ふわと香りが立つ。蜜柑の皮を剥くように短冊状に皮を剥くことができる。すると、全面が果肉となるので、枇杷を適宜回しながら子房のみになるまで食べていけば自動的に可食部を完食できる。食べた後の皮や子房も枇杷の甘い香りがするので満足するまで嗅げばいいだろう。蟹を嫌う人の大抵はアレルギーか皮を処理するのが面倒なのだ。蟹の味をもってしてもだ。果物もまた、皮剥きや種の処理という可食加工の工程はコストである。この点でも、枇杷は感動的なのだ。食す本人が好きなだけ剥きつつ食べつつすればいい。

 

 小学生の時の思い出から、大体梅雨の頃に生る枇杷を初夏のびわとして記憶している。

 5年生の時だったと思う。一度だけ、友達とうちでプールに入った。うちには小学生になる前まで使っていた小さいビニールプールがあって、なぜかそれを10歳を超えた男の子5~7人で使うことになってしまった。プールの授業やプール開きの直前、つまり一年で最も水遊びがしたい時期のことだった。梅雨の時期で、でも意外と晴れも多い。だからビニールプールにぎゅうぎゅう詰めになる程、普段遊ばない友達も誘ってしまっても、無理はないのだ。

 庭には、今も置きっぱなしのこれまた未就学児までが適正年齢の滑り台があった。それをプールに立てかけて水を流すことでウォータースライダーを作ってくれたやつには感心した。遊びを発明できる人こそ本当に頭のいい人なのだという思想は、この時に生まれた。僕は塾に通っていたので学校のお勉強はクラスで3番目くらいにはできた。そんな程度で「頭いい」と言ってもらってしまうことへのモヤモヤが、あのウォータースライダーですっきりしたんだ。鮮烈な、爽快な日だった。

 そこに、びわが来た。祖母は収穫したらすぐうちに分けてくれていた。それを母が冷やしてくれていて、プールでちゃぷちゃぷやっている僕らに出してくれた。これが、びっくりするくらい甘かった。びわはフルーツの中では実が締まっている方だが、果肉を舐めると感じられる程度の水分もあって、みずみずしい。それがプールでのどが渇いた僕らを潤した。

 これを振舞えてよかったな、喜んでくれているのがなんだか誇らしいな、と思ったものだ。あの日誰がいたか、どんな会話をしたか、正直なところほぼ覚えていないけれど、びわの甘い思い出だ。

 

 去年。コロナ禍が社会を苛んだ2020年の4月、僕もまた災難に遭っていた。過労気味に働いていた塾が休校になって、収入が断たれた。接触を断つために限界まで外に出なかったら、すっかり気を病んでしまった。人が来ないと思うと、どんどん部屋が汚くなっていく。いや部屋の汚さは元々だけど。やるべきことを失って、遂にやりたいことをやる時間を得たのだが、どうも調子が出なかった。白黒思考のゼロヒャク人間なので24時間体制で根を詰めすぎると結果的に長続きしない。所持金(引き出しに行くのすら避けていた)と食糧が尽きたタイミングで東京での孤軍奮闘を止め、実家に居させてもらうことにした。4月の終わりから5月の終わりまでの丁度1か月、実家にいた。

 で、びわの話だ。祖母は去年もびわをくれた。5月の上旬、闇のゴールデンウィークが明けてすぐくらいに、うちに採る手伝いを頼んできた。上記の事情で暇だったから、僕がやった。母も手伝った記憶がある。青くない黄色く熟したものを、長ばさみで枝ごと切っていく。なんだかおかしい。びわが美味しそうに見えない。遠いからか。祖母は、鳥に食べられるから採ってしまって、と繰り返す。そうか。鳥に盗られるのを恐れるあまり、収穫時期が早いのだ。僕は抗議した。あんなに甘くなるのだから、鳥に少々食べられても待った方がいい。でも、自分が食べることではなく近所の人に配ることを目的としている祖母には、通じなかった。いいから採ってくれの一点張りで、僕は従った。

 この未熟なびわ達は、かなりすっぱかった。渋いと言った方が適切だろうか。熟しきっていない味がした。ああ時代は変わったな、と感じた。

 

 さて、同じ話を繰り返すことの圧倒的なデメリットとして、話を聞く価値を著しく損ねるということがある。この「話を聞く価値」というのは、多くの場合話題ではなく人間に付随するから、同じ愚痴をぐちぐちと壊れたレコーダーのように繰り返すあなたは自省し自制した方がいい。祖母のする話は、僕ら家族の共通認識として、あまり参考にならない。

 5年近く前——僕が大学に入ってしばらくして、祖母は交通事故に遭った。信号のないところで、徒歩の祖母をおっさんの車が轢いて、祖母は脚を強打した。たぶん、10割相手が悪い事故だ。問題は、その「後遺症」にあった。祖母は神経痛のような症状を抱えるようになってしまい、不眠と脚の痛みを抱えるようになった。年齢に似合わずピンと張っていた背筋が変わってしまったから、素人目にも神経だとわかった。問題の本質はそういう年相応のフィジカルの部分ではないと思っている。メンタルだ。この事故が始まりというよりは、少し前から兆候があったが、祖母に文句を垂らす癖がついた。加速した。気持ちはすごくわかる。僕が冒険できた広い庭・家で1人、特にやることもなく過ごしているのだ。せっかちな気性を最大7人の家族の世話に資してきた人なのだ。健康だから社交的だったが、けがをして急に動き回ることができなくなると、悪い方に悪い方に思考は巡る。

 長期休みで帰省する度に僕は祖母を訪ねたが、この頃からは、必ず同じ苦労話のセットを(一回の訪問で何巡か)聞かされるようになった。家族、特に曾祖母(祖母にとっては姑)の世話・介護によう働いたという話と、家が広いから1人だと寂しい、あんたも1人暮らしで若いからいいと思うけど歳をとってずっと1人だとどんなに寂しいかという話、駐車場の家賃を払ってくれない人がいてこんなにふてぶてしいという話、どこどこの誰々さんの息子さんは京大に行ったけどやめてしまってどうこうという話、僕はやっぱりちゃんとしたいいところに勤めなければいけない、変な人に会ってしまうという話……おもしろいのは、祖母の実家がどんなだったかという話(それも戦争でみんな焼けたというオチで空しくなる)か大叔父さん(祖母の弟)の働いていた時の話くらいなものだ。あとは、全部、誰かに失礼で、後ろ向きの、暗い話だ。価値がない。おもしろくない。話も長い。僕は時計を見る。全然進んでない。苛立ちと、少し安心する。次に時計を見る。すごい進んでいる。夕食の時間になっていて、僕は母に呆れられる。

 そんな調子だ。僕は話をするのは下手というか癖が強いが、話を聞くのはそれなりの腕だと自負する。祖母と僕の関係は、僕が少し辛抱強く付き合うので受験勉強などしていた時期より良好になった。まずいなと心底思うのは、ずっと隣に住んでいる両親と弟が、辟易としていることだ。

 

 近況。コロナで人事が不安定になり、講習会で人手が全然足りないかと思ったら通常授業では先生達の雇用が確保できないめちゃくちゃな塾を、去年の9月に辞めてしまった。実家に居候し、働き口もとりあえず父と兄の手伝いで誤魔化している。

 今年も、5月に祖母からびわ採りを頼まれた。この日誕生日の弟と僕が赴いた。でも、去年の記憶があるから、僕は1週間先延ばしにしないかと抵抗した。当然無駄だった。また来てもらうのも悪いからと言われて、祖母のお手伝いさんもいらっしゃったから、呑まざるを得なかった。びわの樹はかなりの高さまで実をつけていて、実際問題長ばさみをもってしても男でないと採るのが難しいので筋は通っていた。いいから、鳥に食べられるから採ってしまって、と繰り返す。近所の人に配る量を確保したいのだ。近所の人はこんな枇杷くらい(ありがたみもない)と思うやろうけど、と祖母は言った。なればこそ、甘いものを配った方がいいだろう。かなり抗議しながら、結局、今年も僕は美味しくないびわを採った。はさみを支え狙いを定めるには丹田を支えにする必要があった。真上を見ると、日差しが頭と目を焼く。放置すればびわを甘くするはずの日光が僕を刺す。

 暑さでぼーっとしながら、すっぱい葡萄の寓話なんて、祖母は知らないのだなと思った。狐が、自分では届かない高さにある葡萄を食べられずに、どうせすっぱいに違いない、食べてやるものか! と負け惜しみを言う。こういうことよくやっちゃうなあって感想を抱いた好きな話だ。これは、手に入らないものを低級化して、手に入れられない自分を正当化する防衛機制だ。こういう自覚があれば、逆に、手に入る高さのびわがすっぱい経験を得て、それを甘くするって考えがどうして採用されないのだろう。祖母は、女子でありながら優秀で当時としてはおそらく珍しい、短大に行けた人だった。働いてみたかったが卒業と同時にお見合いをしてうちに来たと、小学生時代、某大学に行った弟よりも賢かったのだから今のような世なら同じところには行けたと思うと、よく漏らす。すっぱい葡萄の知恵に至る可能性があり、また知る機会と思索する余暇を与えられなかった人が祖母だ。僕には祖母を責めることはできない。それでも年齢や境遇など度外視で個人として期待し、えらく落胆してしまうのは、僕が自分で思っているより教育者気質の人間だからだろう。

 この日のことでもう一つ印象に残っていることがある。この5月の末、弟の誕生日があった。母がケーキを買ってくれたが6月初頭でないと間に合わず、当日はタルトで祝うことにした。晩、弟を祝いにうちに寄ると言う祖母を、タルトに誘うか確認すると母は渋った。ケーキとタルトで二度も祖母をうちに上げて長話を聞きたくないのだろう。この日、僕はびわを持ち帰ってから再び祖母の元に行き、今日ケーキはなく(ご馳走できず)、6月に食べることを伝えて母に加担してしまった。なぜかって、他の人が伝えるよりは、誠意を込められると思ったから……。

 ちなみに、今年のびわを生食したところ、意外と味のいいのもあった。僕の主張する程、祖母は収穫時期を外していなかった。

 

 祖母や祖母の家の話は、僕にとって家や氏族の話にごく近い。家族についての勝手な評価を述べる。弟は気遣いができる。僕のウザさに耐えるのだから、本当に寛容だ。なんというか、主張が弱い。自分の部屋で僕にだけぼそっと不平を漏らす。その弟が、祖母に対しては割とはっきりと否定する。父はよくできるらしいが僕の感覚ではつまらない。自慢と雑談の区別があまり付いていないのか、他人に侮られても逆に構うのを強いることになってもダメージがない。知識や知恵があるので、祖母のことは放っておくと間違ったことを言い、実行する仕方のない人だと決め付けている(まあこの評自体は正確だ)。母は性格が悪い。ある程度ずけずけと、人のことを評することができる。僕は母似であり、そのことを忌々しいと思う。祖母と関わることが多く、こんなことを言って、自分はこう思って、こう返した、ということまで父か僕に話す。僕は気に入らないと急に態度が硬化するので、僕には探り探り言う。同じ愚痴を短時間で何回か繰り返すタイプだ。兄は無邪気で、人の心の機微みたいなものに気を付けなくても生きていける生き物な気がする。家族で1人1個ずつと決めて分け合ったお菓子などは、必ず兄の分がいつまでも残り、見かねた誰かが食べる。僕は——僕は間違いなくこの人達よりはおもしろい。そして、弟よりシャイで父より不遜で母より辛辣で兄より恩義のような感覚に疎い。不満を態度に出して口には出せない。こんなインターネットなんかに吐き出すのだ。

 そんな人達だからだろう。今年のびわは、最初に母、父、僕がほんの数個ずつ食べてから、ほぼ僕以外誰も手を付けないでいた。数週間経ち、父と兄がさくらんぼなんか買いやがって、いや、普通にありがたいのだけど、びわを食べきっていないじゃないか。さくらんぼが出た時に、びわも少し出た。皆さくらんぼを食べるから、僕はさくらんぼを拒み誰も食べないびわだけ食べた。傷んできていて、所々黒ずんで食べられない。すごく、腹が立ってきた。この人達の誰も何も悪くはないが、自分を含め誰もが薄情ではないか。これは祖母という人に対する黙殺だよ。それで僕は冷蔵庫に残っているあと少しのびわをひたすら貪り始めた。食べられなくなっているもの3個ほど以外は、可食範囲を齧った。多分8個くらいあった。シアン化合物の味がした。

 先日、6月の下旬に。夕食中、祖母がうちを訪ねてきた。びわのジャムを作ったから、味見していけるならあげるとのことだった。僕が受け取って、食事中だったけど、食べた。甘くていい味だ。パイやタルトの中身みたいな風味がした。いけるよと伝えるため玄関に戻ったら、父と母に向かって、祖母がワクチンがどうとか市の調査がどうとか、いつもの聞くのが辛くなるトーンで話している。両親はそれに対し、少し不快げに話を畳みにかかる。祖母はジャムを持つ僕の方を全然見ない。ジャムをダシに、半分話を聞いてもらいに来たのだから、メインはむしろ立ち話の方なのだ。僕は結構な時間棒立ちでジャムの感想を伝える時機を見計らったが、不毛だと感じ食事お再開した。祖母が話を切り上げて、僕は玄関に急いだのだけど、間に合わず帰ってしまった。

 このびわジャム、どうなっただろうか。どうもならないのだ。誰も味見一つしない。僕は実家に居ついてすぐ、朝パンを食べるのが嫌だとカミングアウトして、ご飯かコーンフレークを食べている。僕が常人より過敏なのだろうか、他の人がおかしいのだろうか、他の人はジャムを、びわを、忘れられるようだ。

 明日の朝僕はびわジャムを塗りたくってパンかコーンフレークを食べよう。老いで変わるのは、本人だけでなく周囲の扱いもだと思う。この介護未満の関係において、第一者として浅いかわりに第三者として自分達を視ることをやめられないから、僕はきっとこの先も僕らに失望し続けるだろう。

 

 祖母のびわはすっぱい。